◆変化と馴染み/A-47 ― 2014年07月12日 11時23分58秒
まだまだまだ、このlogの更新は遅れています。
朝と夜に書こうとしているのですが、このところ汗だくで帰って来て、すぐにシャワーをあびてしまうからか、どうしても夜は気が抜けてしまいがちで、なかなか追いつくことができません。
昨日のlogを読み返して、ああ、また似たような話をしているなぁと感じました。おそらく表現が変わっただけで、ほぼ同様の話をもうこのlogでは相当回数繰り返していると思います。
もちろん、昨日も書いている時に「あーなんか違うと思ったけどやっぱりにてるな」と思ったのですが、抽象的な表現を優先するのだから当たり前と言えば当たり前だなとも思っていますし、自分が違うと思っていれば、ひとまず書いてしまうことにしています。
重要なのは、どうして違うと思ったのかであって、それを確認するには、やはり頭の中から一度取り出して、書いてみるのが1番わかりやすいのです。その証拠に、書いている途中で気づいて、書く事をやめたことも何度かあります。
そういった自分の思考の細かな変化を知っていると、日々の繰り返しのなかで平に見えて来るものも、同じように少しずつ変わっていっているのだなということが、わかります。
そして多分今日のこの話も、既にどこかで書いた気がしています。
逆に考えると、どんなに変わったと思っても、ちっとも変わっていないのかもしれません。
あるいは、変わっているのは自分ではなく、自分が周囲を、自分に馴染むように変化させているだけなのかもしれません。
朝と夜に書こうとしているのですが、このところ汗だくで帰って来て、すぐにシャワーをあびてしまうからか、どうしても夜は気が抜けてしまいがちで、なかなか追いつくことができません。
昨日のlogを読み返して、ああ、また似たような話をしているなぁと感じました。おそらく表現が変わっただけで、ほぼ同様の話をもうこのlogでは相当回数繰り返していると思います。
もちろん、昨日も書いている時に「あーなんか違うと思ったけどやっぱりにてるな」と思ったのですが、抽象的な表現を優先するのだから当たり前と言えば当たり前だなとも思っていますし、自分が違うと思っていれば、ひとまず書いてしまうことにしています。
重要なのは、どうして違うと思ったのかであって、それを確認するには、やはり頭の中から一度取り出して、書いてみるのが1番わかりやすいのです。その証拠に、書いている途中で気づいて、書く事をやめたことも何度かあります。
そういった自分の思考の細かな変化を知っていると、日々の繰り返しのなかで平に見えて来るものも、同じように少しずつ変わっていっているのだなということが、わかります。
そして多分今日のこの話も、既にどこかで書いた気がしています。
逆に考えると、どんなに変わったと思っても、ちっとも変わっていないのかもしれません。
あるいは、変わっているのは自分ではなく、自分が周囲を、自分に馴染むように変化させているだけなのかもしれません。
◆経験と制御/A-46 ― 2014年07月11日 12時28分54秒
まだまだまだまだ、このlogの更新は遅れています。
今日は昨日の続きのような話を書こうかと思います。
昨日の喧嘩の原因は、僕の心配が発端になっていたのですが、心配については先日掘り下げたはずなので、今日は知ること、経験のようなものについて考えてみようと思います。
誰でも、何かを知る事の喜びというものを味わった事があると思います。同時に知る事の恐ろしさも同様に味わったことがあると思います。それらの積み重ねを自身の経験と呼んで、それらを基準に考え行動しているのだと思います。
このように言うと、まるで自分がそれを全てコントロールしてきたように聞こえますが、これは逆に言う事もできて、それらを基準として考えや行動が制限されてしまっている、とも受け取れるわけです。
どちらが良い悪い、という話ではありません。自分がコントロールできていると考えることができる事と、できないと考えている事のどちらも存在しているということです。つまりはいつものバランスの話です。
この事について、僕が最近よく思うのは、人は自分が思っているほど自分をコントロールできてはいないし、同時に、コントロールできないと思ってることは、案外そうでもなかったりする、ということです。
僕は、物心がついたばかりの頃に、強く不安になるような出来事を経験しました。人の怖さを知りました。その経験を基盤に基準にして、自分の思考を重ねて来たので、僕の基本的な思考は、その多くが怖さに対する怯えに捉われています。それは現在も不明瞭でも抹消することもできないので、変わってはいないのだと思います。
ですが、それに捉われ続けなければならないようなルールは別にないのです。誰かに責められるいわれもなければ、自分がそんな自分を責める必要もどこにもないのです。経験は過去の出来事であって、それ以上でもそれ以下でもないということです。つまりは丸ごと、受け止めるしかないわけです。ですからきっと制限はいつでもそこにあってコントロールできない時もありますし、逆にそれごとコントロールしてしまおうと思えばそれもできる時もあるわけです。
ちょっと抽象的で難し過ぎるかもしれませんが「リンゴがリンゴであることに自信をもったり否定したりしてもしょうがない」といったようなことでしょうか。
書いていて、僕も上手く説明できているか自信がなくなってきたので、今日はこの辺で終わりにしておきます。
今日は昨日の続きのような話を書こうかと思います。
昨日の喧嘩の原因は、僕の心配が発端になっていたのですが、心配については先日掘り下げたはずなので、今日は知ること、経験のようなものについて考えてみようと思います。
誰でも、何かを知る事の喜びというものを味わった事があると思います。同時に知る事の恐ろしさも同様に味わったことがあると思います。それらの積み重ねを自身の経験と呼んで、それらを基準に考え行動しているのだと思います。
このように言うと、まるで自分がそれを全てコントロールしてきたように聞こえますが、これは逆に言う事もできて、それらを基準として考えや行動が制限されてしまっている、とも受け取れるわけです。
どちらが良い悪い、という話ではありません。自分がコントロールできていると考えることができる事と、できないと考えている事のどちらも存在しているということです。つまりはいつものバランスの話です。
この事について、僕が最近よく思うのは、人は自分が思っているほど自分をコントロールできてはいないし、同時に、コントロールできないと思ってることは、案外そうでもなかったりする、ということです。
僕は、物心がついたばかりの頃に、強く不安になるような出来事を経験しました。人の怖さを知りました。その経験を基盤に基準にして、自分の思考を重ねて来たので、僕の基本的な思考は、その多くが怖さに対する怯えに捉われています。それは現在も不明瞭でも抹消することもできないので、変わってはいないのだと思います。
ですが、それに捉われ続けなければならないようなルールは別にないのです。誰かに責められるいわれもなければ、自分がそんな自分を責める必要もどこにもないのです。経験は過去の出来事であって、それ以上でもそれ以下でもないということです。つまりは丸ごと、受け止めるしかないわけです。ですからきっと制限はいつでもそこにあってコントロールできない時もありますし、逆にそれごとコントロールしてしまおうと思えばそれもできる時もあるわけです。
ちょっと抽象的で難し過ぎるかもしれませんが「リンゴがリンゴであることに自信をもったり否定したりしてもしょうがない」といったようなことでしょうか。
書いていて、僕も上手く説明できているか自信がなくなってきたので、今日はこの辺で終わりにしておきます。
◆把握と余裕/A-43 ― 2014年07月08日 12時19分04秒
まだまだ、このlogの更新は遅れています。
ですが、ようやく当日の出来事を思い出せる程度には追いついてきました。
この日は、地元の県立公園でF原さんとランチをして、ブーメランを投げたり、水鉄砲で打たれたり、木に引っかかってしまったブーメランを木の枝の槍で落としたりして、久しぶりに外で遊んでまいりました。
帰宅してからは、かき氷をつくったりしました。白玉を茹でて、小豆を用意して、練乳も用意して、宇治金時と苺ミルクなかき氷を作りました。まだ、かき氷を食べるには少々涼しいぐらいだったかもしれませんが、楽しく涼しい時間でした。
ただ、準備の時に少々問題がありました。かき氷機用の製氷器が、引っ越しのさいに紛失してしまっていたのです。先日もアイスクリームメーカを使おうとした時に、大事なパーツが欠損していることに気づきました。
時間のない中でろくに確認もできないままの荷造りでしたので、仕方のないことですが、他にも色んなものを失くしていそうです。それら1つ1つにいちいち感傷する気はないですが、失くしたものを取り戻すのは、新しく手にする時よりも、難しいことのほうが多いので、どうしても諦めることが多くなります。
代替がきくようできかない、違うようで似ている、どちらであっても、以前と同じように、とはいかないものです。僕はその変化を、極力楽しみたいと考えていますが、自分が何を得て何を失っているかを把握していないと、楽しめる程の余裕が持てないのだなという事を、最近痛感しています。
悲しい話ではありません。どちらかといえば切ないと言えるでしょうか。ありのままに受け止めたいものです。
ちなみにかき氷の氷は、プロテインのシェーカーでなんとかしました。思いのほか、上手くいったのです。
ですが、ようやく当日の出来事を思い出せる程度には追いついてきました。
この日は、地元の県立公園でF原さんとランチをして、ブーメランを投げたり、水鉄砲で打たれたり、木に引っかかってしまったブーメランを木の枝の槍で落としたりして、久しぶりに外で遊んでまいりました。
帰宅してからは、かき氷をつくったりしました。白玉を茹でて、小豆を用意して、練乳も用意して、宇治金時と苺ミルクなかき氷を作りました。まだ、かき氷を食べるには少々涼しいぐらいだったかもしれませんが、楽しく涼しい時間でした。
ただ、準備の時に少々問題がありました。かき氷機用の製氷器が、引っ越しのさいに紛失してしまっていたのです。先日もアイスクリームメーカを使おうとした時に、大事なパーツが欠損していることに気づきました。
時間のない中でろくに確認もできないままの荷造りでしたので、仕方のないことですが、他にも色んなものを失くしていそうです。それら1つ1つにいちいち感傷する気はないですが、失くしたものを取り戻すのは、新しく手にする時よりも、難しいことのほうが多いので、どうしても諦めることが多くなります。
代替がきくようできかない、違うようで似ている、どちらであっても、以前と同じように、とはいかないものです。僕はその変化を、極力楽しみたいと考えていますが、自分が何を得て何を失っているかを把握していないと、楽しめる程の余裕が持てないのだなという事を、最近痛感しています。
悲しい話ではありません。どちらかといえば切ないと言えるでしょうか。ありのままに受け止めたいものです。
ちなみにかき氷の氷は、プロテインのシェーカーでなんとかしました。思いのほか、上手くいったのです。
◆夏の大三角と視線/A-42 ― 2014年07月07日 20時29分29秒
まだまだまだ、このlogの更新は遅れています。
昨日は七夕から話を始めたのに、星のほの字もない内容になってしまいました。
といっても、僕は星に詳しいわけでも、織り姫と彦星について詳しいわけでもありませんので、当たり前なのですが、今年は職場の業務として、短冊に願いごと書きました。ネコ科の動物について、あるお願いをしておきました。
ちなみに、関東はおおむね曇った夜空だったと思われます。
夏の大三角な遠距離恋愛はともかく、星を見ることは好きなので、それをきっかけにある人を誘って、夜の公園にでも行こうかと考えたのですが、残念ながら色々と無理がありました。冬か来年まではおあずけとなりそうです。
と、書いていて気づいたのですが、最近あまり星を見ていないような気がします。梅雨の時期なので当たり前といえば当たり前ですが、自転車に乗った時も上を見上げていないような気がします。まぁ、去年事故を起こしたばかりなので、余所見運転はダメ絶対に決まっているのですが、それにしても、と思いました。
なぜそう感じるのか、と考えてみましたが、おそらく目の前ばかりを今は見ているのだと思います。見ていたいと、見逃したく無いと思う対象があるのです。
それが余所見にならないように注意はしていますが、まだしばらくは続きそうですし、ずっと続くようにとも、それこそ願っています。
願う、というよりは、そう在りたいというべきですが、最近の僕の願いは多くの場合そうなので、結局は願いとして、意味が通じるかなとも考えています。
来年の今頃の僕の視線がどうなっているのか、今から楽しみです。
昨日は七夕から話を始めたのに、星のほの字もない内容になってしまいました。
といっても、僕は星に詳しいわけでも、織り姫と彦星について詳しいわけでもありませんので、当たり前なのですが、今年は職場の業務として、短冊に願いごと書きました。ネコ科の動物について、あるお願いをしておきました。
ちなみに、関東はおおむね曇った夜空だったと思われます。
夏の大三角な遠距離恋愛はともかく、星を見ることは好きなので、それをきっかけにある人を誘って、夜の公園にでも行こうかと考えたのですが、残念ながら色々と無理がありました。冬か来年まではおあずけとなりそうです。
と、書いていて気づいたのですが、最近あまり星を見ていないような気がします。梅雨の時期なので当たり前といえば当たり前ですが、自転車に乗った時も上を見上げていないような気がします。まぁ、去年事故を起こしたばかりなので、余所見運転はダメ絶対に決まっているのですが、それにしても、と思いました。
なぜそう感じるのか、と考えてみましたが、おそらく目の前ばかりを今は見ているのだと思います。見ていたいと、見逃したく無いと思う対象があるのです。
それが余所見にならないように注意はしていますが、まだしばらくは続きそうですし、ずっと続くようにとも、それこそ願っています。
願う、というよりは、そう在りたいというべきですが、最近の僕の願いは多くの場合そうなので、結局は願いとして、意味が通じるかなとも考えています。
来年の今頃の僕の視線がどうなっているのか、今から楽しみです。
◆小食とダイエット/A-38 ― 2014年07月03日 19時22分09秒
前日の日記にも書きましたが、現在このlogの更新はかなり遅れています。
よって、その日のメールのやりとりなどを手がかりに書いています
この日は、出勤前にF原さんとお寿司を食べに来ました。急なことでしたが、それほど慌てる事もなく、良い時間を過ごせたと思います。お寿司を食べる前にも少し食べていたので、いくらか食べ過ぎた気がしましたが、仕事に支障はありませんでした。
最近、小食だと言われるようなことがありますが、自分ではまだまだ食べ過ぎだと考えています。だからといって意識的なダイエットをしていたりはしないのですが、そもそも登録販売者である以上、健康的な食生活というものには、一般の方よりも気を使っているつもりです。
とはいっても、ジャンクフードは好きですし、体調崩したときに誤魔化せる栄養剤や薬などを多く知ってもいるので、肝臓が疲れることは以外と多いかもしれません。お酒もタバコも飲みませんが、帰宅時間が遅いので、食べてから寝るまでの時間が短いこともままあります。
そういった自分に対して、ジャンクフード食べ過ぎじゃないか? 誤魔化す為にカロリーの高い栄養剤や薬を使い過ぎじゃないか? この時間には食べない方がいいんじゃないか? といった注意の意味で食べ過ぎだと考えています。
あとはそうですね、僕は本などを読みながら食べる事が多いので、よく噛まずに食べていることも多いかと思われます。
と、こんなことをlogに書いているのも、そういった自分への戒めなのです。小食かもしれませんが、考えるべきなのは、食べ方なのではないかと思うわけです。
よって、その日のメールのやりとりなどを手がかりに書いています
この日は、出勤前にF原さんとお寿司を食べに来ました。急なことでしたが、それほど慌てる事もなく、良い時間を過ごせたと思います。お寿司を食べる前にも少し食べていたので、いくらか食べ過ぎた気がしましたが、仕事に支障はありませんでした。
最近、小食だと言われるようなことがありますが、自分ではまだまだ食べ過ぎだと考えています。だからといって意識的なダイエットをしていたりはしないのですが、そもそも登録販売者である以上、健康的な食生活というものには、一般の方よりも気を使っているつもりです。
とはいっても、ジャンクフードは好きですし、体調崩したときに誤魔化せる栄養剤や薬などを多く知ってもいるので、肝臓が疲れることは以外と多いかもしれません。お酒もタバコも飲みませんが、帰宅時間が遅いので、食べてから寝るまでの時間が短いこともままあります。
そういった自分に対して、ジャンクフード食べ過ぎじゃないか? 誤魔化す為にカロリーの高い栄養剤や薬を使い過ぎじゃないか? この時間には食べない方がいいんじゃないか? といった注意の意味で食べ過ぎだと考えています。
あとはそうですね、僕は本などを読みながら食べる事が多いので、よく噛まずに食べていることも多いかと思われます。
と、こんなことをlogに書いているのも、そういった自分への戒めなのです。小食かもしれませんが、考えるべきなのは、食べ方なのではないかと思うわけです。
◆控えると我慢/A-37 ― 2014年07月02日 18時57分35秒
前日の日記にも書きましたが、現在このlogの更新はとても遅れています。
よって、その日のメールのやりとりなどを手がかりに書いています。
この日は、このlogに書けるような具体的な出来事はありませんでした。
なので、この日のキーワードになるような言葉について考え書いてみることにします。このところの課題となっているような言葉でもあります。
「控える」という言葉なのですが、先日logに書いた待ちの姿勢とは、また少し意味合いが変わりましたが、本質的には変わっていません。選択として、動くべきか待つべきかを選ばなくてはならない時に、後者を選ぶということですが、控えつつ動くこともできるので、それほど単純な話にはできません。
我慢、と置き換えてもいいかもしれませんが、僕は我慢という言葉には、多くの人がマイナスイメージを持っているだろうと考えているので、自分以外の誰かに対しては、極力「控える」を使うようにしています。個人的には「我慢」には、被害者意識が付いて回ると考えています。
「自分ばかりが我慢している」と、話をするのが苦手な人や人見知りをする人が、よく陥りがちな思考のパターンです。身勝手な我慢ほど、他者にとって救いの手を出しにくいものはないと、日頃思っています。多くの場合、そのまま我慢を続けて、爆発するときになって相手に伝わってしまう為に、喧嘩になってしまうわけです。
だからといって、何でもかんでも喋ってしまったり、相手に譲るばかりでは、そのうち自分がいったい何がしたいのか、相手も自分になにを求めているのか、なんだかよくわからなくなってしまうことにもなるでしょう。
そういった考えから「控える」という言葉をつかって、自分を上手くコントロールできないものかと試しているのですが、なかなか上手くいっている気がしません。結果的には悪い方向に向かってはいないと思いますが、相手への負担になっていないか、少々気がかりです。
ここはあえて「我慢」をしろと、自分に言い聞かせるべきかもしれません。
よって、その日のメールのやりとりなどを手がかりに書いています。
この日は、このlogに書けるような具体的な出来事はありませんでした。
なので、この日のキーワードになるような言葉について考え書いてみることにします。このところの課題となっているような言葉でもあります。
「控える」という言葉なのですが、先日logに書いた待ちの姿勢とは、また少し意味合いが変わりましたが、本質的には変わっていません。選択として、動くべきか待つべきかを選ばなくてはならない時に、後者を選ぶということですが、控えつつ動くこともできるので、それほど単純な話にはできません。
我慢、と置き換えてもいいかもしれませんが、僕は我慢という言葉には、多くの人がマイナスイメージを持っているだろうと考えているので、自分以外の誰かに対しては、極力「控える」を使うようにしています。個人的には「我慢」には、被害者意識が付いて回ると考えています。
「自分ばかりが我慢している」と、話をするのが苦手な人や人見知りをする人が、よく陥りがちな思考のパターンです。身勝手な我慢ほど、他者にとって救いの手を出しにくいものはないと、日頃思っています。多くの場合、そのまま我慢を続けて、爆発するときになって相手に伝わってしまう為に、喧嘩になってしまうわけです。
だからといって、何でもかんでも喋ってしまったり、相手に譲るばかりでは、そのうち自分がいったい何がしたいのか、相手も自分になにを求めているのか、なんだかよくわからなくなってしまうことにもなるでしょう。
そういった考えから「控える」という言葉をつかって、自分を上手くコントロールできないものかと試しているのですが、なかなか上手くいっている気がしません。結果的には悪い方向に向かってはいないと思いますが、相手への負担になっていないか、少々気がかりです。
ここはあえて「我慢」をしろと、自分に言い聞かせるべきかもしれません。
◆雨に悩むと雨に腹を立てる/A-34 ― 2014年06月29日 12時28分56秒
まだまだまだまだまだまだまだ遅れています。
気づけばもう、新しい月になって1週間以上経ってしまっていました。
今年の梅雨はあっという間に感じることになりそうです。
去年の今頃はもう、このlogを休止させていましたし、そのあとに起きたことのインパクトが大きくて、あまり梅雨をどう過ごしていたのか思い出せないのですが、雨に悩まされた、という印象はあまりありません。車を使うようになったので、当たり前といえば当たり前かもしれませんが、天気に思い悩むほど、余裕がなかったのかもしれません。
昔程、雨が嫌いではなくなったということもあるかもしれませんが、そうして考えてみると、僕は昔からそれほど雨が嫌いではなかったかもしれません。とはいっても、月曜の登校時の雨に悪態をついていたことははっきりと覚えています。
ここ数年は、雨が降ることよりも、気圧が下がることのほうが、気にかかるようになったのだと思います。雨の日の重い気分は、全て気圧のせいだろうと思っているぐらいです。以前このlogにも書きましたが、そういった意味で気圧計を買おうか本当に迷っています。
なんだかコントロールできないなぁ、という日に、本当に気圧が下がっているのか、それを確かめてみたいのです。
まぁ、肉体面で健康を維持出来ていれば、それほど強く感じないんじゃないか、とも思っていますが、それでも無理をしない判断基準の1つとして、手軽に調べられるツールがあったらと、このところよく考えます。
どちらにしても、どうしのぐかという話であって、雨や気圧そのものをコントロールできるわけではないですから、そういった諦めが強くなって、嫌う事を止めたのかもしれません。
まぁ、そういった諦めはあまり好きではないのですが、空に喧嘩を売るほどにまで、腹を立てることも出来ないお年頃といったところでしょうか。
このところ真面目に書き過ぎたので、今日はこの辺で。
気づけばもう、新しい月になって1週間以上経ってしまっていました。
今年の梅雨はあっという間に感じることになりそうです。
去年の今頃はもう、このlogを休止させていましたし、そのあとに起きたことのインパクトが大きくて、あまり梅雨をどう過ごしていたのか思い出せないのですが、雨に悩まされた、という印象はあまりありません。車を使うようになったので、当たり前といえば当たり前かもしれませんが、天気に思い悩むほど、余裕がなかったのかもしれません。
昔程、雨が嫌いではなくなったということもあるかもしれませんが、そうして考えてみると、僕は昔からそれほど雨が嫌いではなかったかもしれません。とはいっても、月曜の登校時の雨に悪態をついていたことははっきりと覚えています。
ここ数年は、雨が降ることよりも、気圧が下がることのほうが、気にかかるようになったのだと思います。雨の日の重い気分は、全て気圧のせいだろうと思っているぐらいです。以前このlogにも書きましたが、そういった意味で気圧計を買おうか本当に迷っています。
なんだかコントロールできないなぁ、という日に、本当に気圧が下がっているのか、それを確かめてみたいのです。
まぁ、肉体面で健康を維持出来ていれば、それほど強く感じないんじゃないか、とも思っていますが、それでも無理をしない判断基準の1つとして、手軽に調べられるツールがあったらと、このところよく考えます。
どちらにしても、どうしのぐかという話であって、雨や気圧そのものをコントロールできるわけではないですから、そういった諦めが強くなって、嫌う事を止めたのかもしれません。
まぁ、そういった諦めはあまり好きではないのですが、空に喧嘩を売るほどにまで、腹を立てることも出来ないお年頃といったところでしょうか。
このところ真面目に書き過ぎたので、今日はこの辺で。
◆後悔と憧憬/A-33 ― 2014年06月28日 11時56分43秒
まだまだまだまだまだ遅れています。
今日は前日の内容の続きになります。
昨日の「木」の例えを前提にすると、僕が日頃思っている「後悔のない選択」はないという考えが、説得力を持ったものになるなと感じました。
何かしら、選択を迫られた時、両者を比べ、または計る時点で、自分の精神のなかに「木」は育つことは、どんな方にも想像ができることだと思います。たとえ現実ではまだ種のようなものでも、人はその種がどんな風に育つか想像ができるわけですから、考えた分だけ期待や未来としての「木」は間違いなく育ってしまうわけです。ですから、選択を意識して行わなければいけなくなっている時点で、すでに後から悔むには充分なほと「木」育ってしまっているわけです。
自分は後悔をほとんどしたことがない、と言える人は、おそらくそういった心のどうしようもなさを、選択する前から理解し、それに捉われない事を自然としているか、あるいは想像を苦手としているのかもしれません。
では、今の僕は後悔しているのでしょうか。
自分に問いかけてみましたが、キーボードを打つ手が止まりました(笑) 一瞬で感じたのは、後悔の念があるとしても、来た道を引き返すことはない、いえ、やはり8年かけて育てた木に、寄り添う気にはなれないということでした。ただ、まだまだ言葉から引き離せない感情が沢山あって、もう少し潜ろうとすると、すぐにグチャグチャの泥沼に足をとられるような気分になります。
このところ、そういった気分になる度に「ああ、随分と楽でいられる場所にいたのだな」と感じます。後悔の念よりもそういった自分の弱さや甘えみたいなものを、再確認していることの方が多いです。
8年の間、寄り添ってきた木を。そうした自分の甘えの象徴だと思っているというわけではありません。むしろ木を視る時の僕の心境は、もっとどこか憧憬のような、きっと、寄り添えなくなったとしても、その木のはった根が、僕が立つ地面の下までいつも伸びているような、そんな印象を感じます。そう思えるようになったから、そこを離れる事ができた、とも言えるかもしれませんが、やはりまだそれらを、適切に説明できている気がしません。
抽象ですら、掴みどころがないような、まだ雲のように高いところにあって、雨が降るような出来事があると、ただただ僕の心を重く湿らせて行くような、そんな状態です。
少々、青臭い匂いがしてきましたので、ここらで終わろうと思います。
また、近い内に、同じ話題で書くことになるでしょう。
今日は前日の内容の続きになります。
昨日の「木」の例えを前提にすると、僕が日頃思っている「後悔のない選択」はないという考えが、説得力を持ったものになるなと感じました。
何かしら、選択を迫られた時、両者を比べ、または計る時点で、自分の精神のなかに「木」は育つことは、どんな方にも想像ができることだと思います。たとえ現実ではまだ種のようなものでも、人はその種がどんな風に育つか想像ができるわけですから、考えた分だけ期待や未来としての「木」は間違いなく育ってしまうわけです。ですから、選択を意識して行わなければいけなくなっている時点で、すでに後から悔むには充分なほと「木」育ってしまっているわけです。
自分は後悔をほとんどしたことがない、と言える人は、おそらくそういった心のどうしようもなさを、選択する前から理解し、それに捉われない事を自然としているか、あるいは想像を苦手としているのかもしれません。
では、今の僕は後悔しているのでしょうか。
自分に問いかけてみましたが、キーボードを打つ手が止まりました(笑) 一瞬で感じたのは、後悔の念があるとしても、来た道を引き返すことはない、いえ、やはり8年かけて育てた木に、寄り添う気にはなれないということでした。ただ、まだまだ言葉から引き離せない感情が沢山あって、もう少し潜ろうとすると、すぐにグチャグチャの泥沼に足をとられるような気分になります。
このところ、そういった気分になる度に「ああ、随分と楽でいられる場所にいたのだな」と感じます。後悔の念よりもそういった自分の弱さや甘えみたいなものを、再確認していることの方が多いです。
8年の間、寄り添ってきた木を。そうした自分の甘えの象徴だと思っているというわけではありません。むしろ木を視る時の僕の心境は、もっとどこか憧憬のような、きっと、寄り添えなくなったとしても、その木のはった根が、僕が立つ地面の下までいつも伸びているような、そんな印象を感じます。そう思えるようになったから、そこを離れる事ができた、とも言えるかもしれませんが、やはりまだそれらを、適切に説明できている気がしません。
抽象ですら、掴みどころがないような、まだ雲のように高いところにあって、雨が降るような出来事があると、ただただ僕の心を重く湿らせて行くような、そんな状態です。
少々、青臭い匂いがしてきましたので、ここらで終わろうと思います。
また、近い内に、同じ話題で書くことになるでしょう。
◆穴と木/A-32 ― 2014年06月27日 11時18分57秒
まだまだまだ遅れています。
このところ、よく寝れています。寝れ過ぎて2度寝が多くて困っております。いえ、実のところそれほど困っていません。
少しづつ、このlogにも書いていますが、先月僕の生活には大きな変化が起こりました。
8年近く積み上げて来たものを、これ以上積み上げるのを止めた、と、今の所、自分ではそう判断しています。
もっと一般的な言い方をするならば、心に穴があいた状態といったところでしょう。ですが、僕にとってこれはあまり適切じゃないように考えています。
積み上げたものに風穴を開けたわけでも、全て壊したわけでもないのです。表現を変えて、元々穴が空いていたところを、ずっと埋め続けて来たというならば、確かに穴が空いているともいえなくはないですが、そこになにも無くなったとは思えないのです。
むしろ無くなったというよりは、平地に高く立てられた塔のように、心理の視線のどこかに必ずその姿が映っているとでもいうべきでしょう。誰かと話をしていたり、仕事をしていたり、そういった意識が限定されている時には視界に映らないのですが、そういったことから解放、離れて「あ、今、自分は一人なんだ」ということを思い出した時に、心に広がる光景の中のどこかに必ずその塔は姿を見せるのです。
書いていて、今ふと思ったのですが「塔」というよりは「木」のほうがより適切かもしれません。積み上げて来たのは、僕1人の手ではなかったのです。つまりは自分だけの意志で形成されたものではない。という意味です。できるだけ自然に、でもきちんと育つように。そうして寄り添える場所になるように、過ごして来たといったところではないでしょうか。
その木に、僕はもう寄り添わないことに決めたわけです。新しい木を別の人と、育てる事に決めたのです。
ですが、そう決めた瞬間、木が枯れるわけでもなくなるわけでもありません。むしろそこに存在し続けるからこそ、そこに意識がいき、しかしもう近づく事のできない場所であるからこそ、より強く、それを失ったと感じるのでしょう。
長くなりましたので、続きます。
少しづつ、このlogにも書いていますが、先月僕の生活には大きな変化が起こりました。
8年近く積み上げて来たものを、これ以上積み上げるのを止めた、と、今の所、自分ではそう判断しています。
もっと一般的な言い方をするならば、心に穴があいた状態といったところでしょう。ですが、僕にとってこれはあまり適切じゃないように考えています。
積み上げたものに風穴を開けたわけでも、全て壊したわけでもないのです。表現を変えて、元々穴が空いていたところを、ずっと埋め続けて来たというならば、確かに穴が空いているともいえなくはないですが、そこになにも無くなったとは思えないのです。
むしろ無くなったというよりは、平地に高く立てられた塔のように、心理の視線のどこかに必ずその姿が映っているとでもいうべきでしょう。誰かと話をしていたり、仕事をしていたり、そういった意識が限定されている時には視界に映らないのですが、そういったことから解放、離れて「あ、今、自分は一人なんだ」ということを思い出した時に、心に広がる光景の中のどこかに必ずその塔は姿を見せるのです。
書いていて、今ふと思ったのですが「塔」というよりは「木」のほうがより適切かもしれません。積み上げて来たのは、僕1人の手ではなかったのです。つまりは自分だけの意志で形成されたものではない。という意味です。できるだけ自然に、でもきちんと育つように。そうして寄り添える場所になるように、過ごして来たといったところではないでしょうか。
その木に、僕はもう寄り添わないことに決めたわけです。新しい木を別の人と、育てる事に決めたのです。
ですが、そう決めた瞬間、木が枯れるわけでもなくなるわけでもありません。むしろそこに存在し続けるからこそ、そこに意識がいき、しかしもう近づく事のできない場所であるからこそ、より強く、それを失ったと感じるのでしょう。
長くなりましたので、続きます。
◆価値観と説明/A-31 ― 2014年06月26日 12時30分51秒
まだまだまだまだ遅れています。
連続で遅れを取り戻すべく書いているので、導入は時間をかけずにいきましょう。 今日も昨日の続きです。
たとえば「友達」について考えてみようと思います。
Aさんは僕の友達だと誰かに説明します。その人との関係を訊ねられた場合、一先ずはこれで解決するでしょうが、多くの場合訊ねたほうも、訊ねられた方も、それだけでは説明が足りないというケースが殆どでしょう。
もの凄くわかりやすい例ですが、これだけで会話が終わってしまえば、Aさんと僕の関係は実際のところの数%も語られていないことになってしまうことはおわかりいただけるでしょう。もし僕にBさんという友達がいた場合、BさんとAさんの違いは確実にあるはずです。同じ友達でも親しみの度合いはちがうでしょうし、なにをきっかけにして友達と呼ぶようになったのか、そもそも第三者に説明する時こそ、友達という言葉をつかいますが、普段それら友達に対して「僕と友達になって下さい」などと確認してから「友達」になるようなケースは少ないでしょう。つまり、そういったところにも言葉として使われる友達には、実際の関係とのズレがあるわけです。
さらに僕にとっての友達のイメージと、訊ねて来た人にとっての友達のイメージにも、必ず差が在ります。
このように考えていくと、もし僕が「Aさんとの関係」を誰かに訊ねられた時、本当に丁寧に相手に説明しようと考えるのであれば、まず「友達についての価値観」を確認して、その価値観から見て「Aさんは自分にとってどういった価値の人なのか」を説明し、さらに対比となるような「Cという、別の価値の人物」の説明も付け足さなければ、きちんと「Aさんと僕との関係をしめせている」とは思えないでしょう。
もちろん、僕が常にそこまで丁寧に説明しているなんてことはありません。大事な場だと考え、そしてそのような長話になるであろう話を、聞いてくれると思えた相手にのみ話します。
さて、具体例を挙げた所でどうでしょう? 皆さんは周囲の人と自分の関係を、とっさに丁寧に説明出来ますか?
そしてそれを、相手に上手く伝えられますか?
是非考えてみて下さい。できればメモなどに書いてみて下さい。きっと「足りないな」「こんなものなのかな」などと、思われる事でしょう。
連続で遅れを取り戻すべく書いているので、導入は時間をかけずにいきましょう。 今日も昨日の続きです。
たとえば「友達」について考えてみようと思います。
Aさんは僕の友達だと誰かに説明します。その人との関係を訊ねられた場合、一先ずはこれで解決するでしょうが、多くの場合訊ねたほうも、訊ねられた方も、それだけでは説明が足りないというケースが殆どでしょう。
もの凄くわかりやすい例ですが、これだけで会話が終わってしまえば、Aさんと僕の関係は実際のところの数%も語られていないことになってしまうことはおわかりいただけるでしょう。もし僕にBさんという友達がいた場合、BさんとAさんの違いは確実にあるはずです。同じ友達でも親しみの度合いはちがうでしょうし、なにをきっかけにして友達と呼ぶようになったのか、そもそも第三者に説明する時こそ、友達という言葉をつかいますが、普段それら友達に対して「僕と友達になって下さい」などと確認してから「友達」になるようなケースは少ないでしょう。つまり、そういったところにも言葉として使われる友達には、実際の関係とのズレがあるわけです。
さらに僕にとっての友達のイメージと、訊ねて来た人にとっての友達のイメージにも、必ず差が在ります。
このように考えていくと、もし僕が「Aさんとの関係」を誰かに訊ねられた時、本当に丁寧に相手に説明しようと考えるのであれば、まず「友達についての価値観」を確認して、その価値観から見て「Aさんは自分にとってどういった価値の人なのか」を説明し、さらに対比となるような「Cという、別の価値の人物」の説明も付け足さなければ、きちんと「Aさんと僕との関係をしめせている」とは思えないでしょう。
もちろん、僕が常にそこまで丁寧に説明しているなんてことはありません。大事な場だと考え、そしてそのような長話になるであろう話を、聞いてくれると思えた相手にのみ話します。
さて、具体例を挙げた所でどうでしょう? 皆さんは周囲の人と自分の関係を、とっさに丁寧に説明出来ますか?
そしてそれを、相手に上手く伝えられますか?
是非考えてみて下さい。できればメモなどに書いてみて下さい。きっと「足りないな」「こんなものなのかな」などと、思われる事でしょう。










最近のコメント